西郷 隆盛(満49歳没)生誕1828年1月23日死没1877年9月24日
南洲年表
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幼少時代
西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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1828年 | 0歳 | 1月23日 | 鹿児島城下の下加治屋町山之口馬場で、父・九郎隆盛、母・マサの長男として生まれる。幼名・小吉(こきち)。文政10年12月7日。 |
1833年 | 5歳 | 松本覚兵衛から儒学を学び始める。次弟・吉二郎(隆廣)生まれる。 | |
1839年 | 11歳 | 造士館からの帰途、友人と争い右ひじを負傷する。武術より、学問に励むようになる。 | |
1843年 | 15歳 | 三弟・信吾(隆興・従道)生まれる。 |
青年時代
西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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1844年 | 16歳 | 藩の郡方書役助(こおりかたかきやくすけ)となり、郡奉行・迫田太次右衛門利済の配下につく。この頃、吉之介と称す。父は吉兵衛と称す。 | |
1847年 | 19歳 | 四弟・小兵衛(隆雄)生まれる。この年、下加治屋町郷中の二才頭(にせがしら)になる。 | |
1850年 | 22歳 | このころ伊藤茂右衛門に陽明学を、無参和尚に禅を学ぶ。 | |
1852年 | 24歳 | 伊集院兼寛の姉スガと結婚。 | |
9月 | 父・吉兵衛死去。亡父吉兵衛の跡目を相続。 | ||
11月 | 母・マサ死去。翌年3月、善兵衛に改名。 |
藩主斉彬への忠勤
西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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1854年 | 26歳 | 1月 | 中御小姓になり、藩主・斉彬に従って江戸に上る。 |
4月 | 庭方役に任命される。水戸の藤田東湖に会い、深い感銘をうける。この年の晩秋から初冬の頃、妻スガ留守中に実家へ引き取られ離婚。翌年まで善兵衛、のち吉兵衛と改名。 | ||
1857年 | 29歳 | 4月 | 藩主・斉彬に従って帰国。御小姓与に復帰。 |
10月 | 徒目付・鳥預・庭方兼務となり、江戸勤務を命ぜられる。 | ||
12月 | 橋本左内と会い、将軍継嗣問題に関する斉彬書を松平慶永に呈す。 | ||
1858年 | 30歳 | 6月 | 帰藩して斉彬に江戸及び京都の形勢を報告。 |
7月 | 吉井友実と上洛。 | ||
7月末 | 大阪で斉彬の訃報に接し、殉死を考えるが、僧・月照に慰められる。 | ||
8月 | 水戸・尾張藩への内勅を持って江戸に行く。 | ||
9月 | 月照をかくまうため、有村俊斎と共に帰藩の途につく。 | ||
10月 | 藩命により三助と改名。 | ||
11月 | 月照に日向送りの藩命を伝え乗船。16日未明、大崎鼻沖で月照と共に入水。同乗していた平野国臣らに救われ、西郷は蘇生したが月照は死去する。 | ||
12月 | 晦日、菊池源吾と変名。奄美大島竜郷へ潜居を命ぜられる。 |
南島潜居と謫居
西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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1859年 | 31歳 | 1月 | 山川を出帆し、奄美大島龍郷村着。 |
11月 | 龍枝加那の娘・おとまがに(愛加那と改名)と結婚。 | ||
1861年 | 33歳 | 1月 | 庶長子・菊次郎誕生。 |
11月 | 新家屋落成。 | ||
藩より召還命令を受ける。 | |||
1862年 | 34歳 | 1月 | 龍郷村出帆。 |
2月 | 枕崎着。上之園の自宅(借家)に落ち着く。大島三右衛門へ改名仰せ付けられる。 | ||
3月 | 徒目付・鳥預・庭方兼務に復す。久光の上洛に村田新八と共に先発。平野国臣らから京大阪の情勢を聞き、待機命令に背き下関出帆。大阪着。 | ||
4月 | 久光は激怒して西郷らの捕縛を命じ、西郷・村田は捕らえられ、鹿児島に護送される。 | ||
6月 | 山川出帆。屋久島一湊・奄美大島西古見を経て出帆。 | ||
7月 | 初め、徳之島湾仁屋着。岡前に住む。菊草(菊子)誕生。 | ||
沖永良部島への遠島処分を受ける。西郷家の知行高・家財没収。知行高は売却済みで実害なし。 | |||
閏8月 | 大島吉之助と改名し、岡前発。井之川出帆。沖永良部島伊延着。和泊で入牢する。 | ||
10月 | 新家屋の「囲い」に移る。 | ||
1863年 | 35歳 | 島の子供たちのために囲いの中で塾を開く。流人学者・川口雪蓮が来訪、以後共に詩作と書の研鑽を積む。 | |
7月 | 薩英戦争が起こる。 | ||
9月 | 土持政照の尽力で出撃のための船を準備する。また、薩英戦争の情報を徳之島や沖縄に求める。 |
禁門の変前後
西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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1864年 | 36歳 | 2月 | 召還の藩命出る。龍郷経由で喜界島に寄り、村田新八を連れ鹿児島着。 |
3月 | 鹿児島出帆。京都に入り軍賦役となる。 | ||
4月 | 一代新番・小納戸頭取となる。 | ||
7月 | 禁門の変起こる。薩摩兵を指揮して、長州兵を撃退する。 | ||
10月 | 藩命により西郷姓に複名。御側役・代々小番に昇格。征長軍総督・徳川慶勝より長州の処分を一任される。 | ||
11月 | 岩国で吉川監物に長州処分案を伝える。征討進軍を中止し、長州処分案を総督に提出。 | ||
12月 | 下関で三条実美ら五卿の処分を計り、征長軍の解兵を提案する。 |
薩長連合前後
西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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1865年 | 37歳 | 1月 | 帰国。岩山八郎太直温の二女イト21歳と結婚。 |
2月 | 太宰府で五卿と会い、福岡で藩主・黒田長博に五卿の処遇を頼む。 | ||
3月 | 上洛。 | ||
5月 | 坂本龍馬を同行して帰国。大番頭・一身家老となる。 | ||
大久保と計り、長州再征には出兵拒否の藩論をまとめる。 | |||
閏5月 | 上洛。 | ||
9月 | 四国連合艦隊の動きを知り、雄藩連合を計る。 | ||
10月 | 帰国し、京都の情勢を報告して、久光の上洛を促す。 | ||
11月 | 兵を率いて上洛。 | ||
12月 | 黒田清隆・坂本龍馬を長州に遣わし、薩長連合を計る。 | ||
1866年 | 38歳 | 1月 | 薩長同盟成立。 |
3月 | 帰国。 | ||
4月 | 藩政改革と陸海軍拡張を進言。 | ||
6月 | 鹿児島入港のイギリス軍艦を訪ね、パークス駐日公使と会見。 | ||
7月 | 嫡子・寅太郎誕生。 | ||
9月 | 大目付・陸軍掛を拝命。 | ||
10月 | 大目付返上。上洛。 | ||
12月 | 兵庫でイギリス公使の通訳官アーネスト・サトウと会う。 |
王政復古への道程
西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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1867年 | 39歳 | 2月 | 帰国し、四侯会議を久光・忠義に建言。高知に行き山内容堂に、宇和島に行き伊達宗城に上洛を促す。 |
3月 | 久光に伴い、兵700を率いて上洛。 | ||
5月 | 中岡慎太郎・板垣退助らと王政復古を計る。 | ||
6月 | 山縣有朋に討幕の決心を告げる。久光、山縣を引見し、薩長連合の密旨を毛利敬親に伝えるよう頼む。小松・大久保・中岡・後藤らと王政復古を盟約。 | ||
7月 | 村田を長州に遣わし、土佐藩との盟約を打診。 | ||
9月 | 後藤と会い、土佐藩の大政奉還建白書提出論を聞く。 | ||
10月 | 薩摩藩邸で、小松・大久保、長州の広沢真臣・品川弥次郎、安芸の辻将曹らと会合し、三藩連合して王政復古断行を決める。 | ||
10月14日 | 長州藩に討幕の密勅が下る。大久保・小松・広沢・品川らと連署して、奉命書を奉る。山口にて毛利敬親父子に謁し、討幕の密勅を呈し上洛出兵を促す。 帰国して、久光・忠義に討幕の密勅を呈し、上洛出兵を促す。 | ||
11月 | 忠義を奉じ、兵を率いて鹿児島発。毛利内匠らと会合し、薩・長・安芸三藩兵出兵の手順を決める。 | ||
12月 | 大久保・岩下・吉井、長州の山田顕義・品川らと会合して、王政復古の大号令発布日を決める。岩倉具視・伊地知正治・岩下・吉井らと大久保邸で会合し、王政復古のクーデターを9日に決定。 | ||
12月9日 | 薩・安芸・尾張・越前四藩の藩兵に出動命令を出す。会津・桑名兵退却、土佐藩兵も出動。王政復古の大号令発布・幕府滅亡。小御所会議開かれる。 | ||
12月12日 | 参与職に任命される。 |
戊辰戦役の活動
西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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1868年 | 40歳 | 1月1日 | 江戸薩摩藩邸焼打ちの第一報を受ける。 |
1月2日 | 大久保・岩下と王政復古に関する外国布告案作成。 | ||
1月3日 | 旧幕軍、大阪より大挙北上。鳥羽・伏見にて迎撃。 | ||
1月4,5日 | 官軍を指揮、勝利を得る。 | ||
1月7日 | 征討令発布の会議に出席。 | ||
1月17日 | 海陸軍掛、および徴士に任命される。 | ||
1月18日 | 藩主に願って徴士を辞す。 | ||
2月1日 | 大久保と征討策を練る。 | ||
2月12日 | 薩藩東海道先鋒軍を指揮して京都発。 | ||
2月14日 | 東征大総督府下参謀に任命される。 | ||
2月25日 | 東海道先鋒軍の各藩隊長を静岡に集め、江戸進軍の命を伝える。 | ||
3月5日 | 大総督・有栖川宮を静岡に迎える。 | ||
3月6日 | 東海・東山両軍に、15日を以て江戸城を総攻撃することを命じる。 | ||
3月9日 | 勝海舟の書代を持って静岡に来た山岡鉄舟と会う。山岡に徳川処分案を手渡す。 | ||
3月13日 | 江戸高輪の薩摩藩邸で勝と会う。 | ||
3月14日 | 田町の藩邸近くの旅館で勝と会い、徳川方の対案を受領。明日の総攻撃を中止する。 | ||
3月16日 | 静岡で大総督府と協議。 | ||
3月20日 | 京都で政府首脳と勝の案を協議。 | ||
4月 | 江戸城入城。 | ||
閏4月 | 京都で大久保・岩倉らと、徳川家禄高と関東鎮撫の策をねる。 | ||
5月 | 黒門口の薩摩軍を指揮し、上野の彰義隊を撃破する。 | ||
6月 | 募兵のため帰国。 | ||
8月 | 東北鎮定に三隊を率いて鹿児島を出帆。新潟着。弟・吉二郎戦死。米沢・庄内(鶴岡)に進駐。寛大な戦後処理をする。 | ||
10月 | 大刀料三百両の下賜が発令される。 | ||
11月 | 鹿児島凱旋。日当山温泉でくつろぐ。 |
藩参政から新政府の参議へ
西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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1869年 | 41歳 | 1月 | 藩の役職辞任。政府への出仕も辞す。 |
2月 | 忠義、日当山まで来て、藩政への参加を求む。藩の参政・一代寄合となる。 | ||
5月 | 箱館の榎本軍討伐増援のため、精兵を率いて赴くが、戦いは終わっていたので直ちに引返す。 | ||
6月 | 維新の功により、永世二千石の賞典禄を受ける。 | ||
9月 | 正三位に叙せられ、辞退したが許されず、この時から父・隆盛の名が誤用される。 | ||
1870年 | 42歳 | 1月 | 参政を辞し、相談役となる。 |
2月 | 山口の兵隊反乱を視察する。 | ||
3月 | 二男・午次郎誕生。 | ||
5月 | 正三位の位記の返上許可発令。 | ||
7月 | 鹿児島藩大参事に任命される。 | ||
12月 | 勅使岩倉・副使大久保ら来鹿して、西郷の出仕を促す。 | ||
1871年 | 43歳 | 1月 | 山口の木戸、高知の板垣らを誘い上京。 |
2月 | 御親兵の制をはかり帰国。 | ||
4月 | 忠義に従い、常備四大隊を率いて上京。 | ||
6月 | 木戸と共に正三位・参議になる。宮中や各省の大改革を断行。 | ||
7月 | 廃藩置県断行。 | ||
8月 | 散髪脱刀令公布。 | ||
11月 | 岩倉・大久保・木戸ら欧米へ出発、留守政府を預かる。 |
朝鮮問題の前後
西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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1872年 | 44歳 | 3月 | 御親兵を近衛兵にする。 |
5月 | 天皇の西国巡幸に随行。大阪・京都・下関・長崎・熊本を経て鹿児島着。 | ||
7月 | 陸軍元帥兼参議、近衛都督となる。 | ||
8月 | 学制発布。別府晋介を朝鮮に、池上四郎を満州に遣わし、政情を調査させる。 | ||
11月 | 久光は、14か条を掲げて西郷を非難。西郷、帰鹿して久光を訪ねる。 | ||
1873年 | 45歳 | 4月 | 東京帰任。 |
5月 | 徴兵令による陸軍大将兼参議に任ぜられる。 | ||
6月 | 病気となり、天皇、侍医を遣わす。朝鮮問題、閣議に上る。出兵に反対し、使節派遣を主張。自ら使節となることを願う。 | ||
8月 | 閣議で西郷の朝鮮使節派遣決定、天皇に上奏。 | ||
10月 | 三男・酉三誕生。岩倉・大久保らを加えて閣議を開く。意見対立。次の閣議で、西郷一任決定。大久保ら辞表提出。三条発病。岩倉、太政大臣代行となり、使節派遣中止を天皇に上奏して裁可される。すべての官位官職の辞表を出し、郊外に移る。 辞表は受理されたが、正三位と陸軍大将はそのまま。 | ||
11月 | 帰郷し、武村に住む。 |
帰郷生活と西南戦争
西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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1874年 | 46歳 | 2月 | 久光が佐賀の乱の鎮定を命じたが断る。 |
3月 | 江藤新平が山川の鰻温泉に来て、援助を請う。 | ||
4月 | 従道に頼まれ、台湾出兵に300人を参加させる。 | ||
6月 | 私学校設立。 | ||
10月 | 大山巌帰鹿して、政府への復帰を願う。 | ||
1875年 | 47歳 | 4月 | 鹿児島郊外の吉野に開墾社設立。 |
5月 | 三条、再出仕を要請。 | ||
11月 | 県令・大山綱良の求めに応じ、県政改革断行。賞典学校生徒3名を、フランスに留学させる。 | ||
1876年 | 48歳 | 3月 | 下野した久光の使者が来て、協力を求める。 |
11月 | 萩の乱・神風連の乱を知るが動かず。 | ||
1877年 | 49歳 | 2月2日 | 根占で私学校徒の火薬庫襲撃事件を知る。 |
2月12日 | 薩軍大将の資格で、政府尋問のため東上することを大山県令に告げる。 | ||
2月17日 | 兵と共に出発。 | ||
2月22日 | 熊本城攻撃。 | ||
2月25日 | 官位を剥奪される。 | ||
3月 | 田原坂の戦い。 | ||
4月 | 人吉に退く。 | ||
5月 | 宮崎に退く。 | ||
8月 | 長井村で政府軍に包囲され、陸軍大将服を焼く。可愛岳を登り、政府軍の包囲網を突破する。 | ||
9月1日 | 鹿児島突入。 | ||
9月24日 | 政府軍総攻撃。城山岩崎谷で銃弾に当たり、別府晋介の介錯により自決する。 |
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